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KINOさんのときどき着物日記

父のこと

先日、母と人形町を散歩しながら父の事を思い出しました。

父は大正10年生まれ(正しくは9年ですが、半年近く出生届けが遅れたそうです)。4年前に85才で亡くなりました。
「墨田川で産湯をつかい・・・」という台詞がありますが、東京下町育ちの父は隅田川でよく泳いでいたらしく、「隅田川に散骨してほしい」と言っていましたので、母と兄と三人で佃島の見える場所に灰を少しだけ撒きました。

生前、私の息子に宛てて自分の子供の頃の事を少しだけ書き残してくれました。
子供の記憶なので曖昧なところもありますが、当時の東京の下町の様子がわかりとても興味深いのでここに書き残しておこうと思います。

以下は父の文章です。

中央区役所の裏の京橋図書館の地下の資料室に昔の地図を見つけたので、記憶を辿ってみた。

目印は湊一丁目の鉄砲洲稲荷神社で、その前の鉄砲洲通りを南下すると湊二丁目となり、多分ここが生地だと思うが、日米戦争の最中に道路の疎開をしたので少しずれたかもしれないが多分このあたりだと思う。
地図ではこの稲荷神社の左下に中央小学校と出ているが、多分昔の鉄砲洲小学校で私の弟が学んだ学校だと思う。

さらに南下すると現在の佃大橋通りに出る。ここの隅田川ベリに佃島の渡し船の記念碑があるが昔は無料でこの蒸気船に乗って遊んだものだ。
佃島に遊びに行くと佃煮を作る匂いがしたものだが、子供であまり旨味はなかった。

この佃島の北側が石川島で、石川島造船所があった所だと思う。
関東大震災の時、母の背中におわれて隅田川に入ったのだが3才で覚えている事は少ないが対岸の空が燃えて真っ赤だったのは多分この造船所が炎上したことではないかと思う。

更に南下して佃大通りを越すと明石町に出るが昔(明治頃)は築地居留地となっていて外人が居留していたわけだが、私が小学生の頃は草原で、聖路加病院がポツリとあり、十字架が空高く見えていて、時々外人の姿を見かけたものだ。

更に南下すると晴美大通りに出る。ここに勝鬨橋があるが、昔は中央部が八の字形にハネ上がり大船が通っていたものだ。
この橋の河畔に海軍経理学校があり、一緒に仕事をした男はここを卒業していた。
その隣が今の魚河岸である。

更に南下すると浜離宮があり、昔は警備のきびしい所だったが、子供の頃はこの離宮の石垣で蟹を取って遊んだことがある。

覚え書きの様なものですが、これを読むと貧しく苦労の多かった子供時代、隅田川ベリを走り回って遊んでいた父の姿が想像できます。
できればもう一度会ってもっと色々な事を聞いてみたい・・・
そんな気持ちです。

父のこと_e0200405_21512382.jpg

                 鉄砲洲稲荷神社



by kinosan_kimono | 2011-04-24 22:01 | 家族

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